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2016年12月24日 土曜日

「戦略」は「戦術」を凌駕する

「戦略」は「戦術」を凌駕する



今年は、NHKの大河ドラマ「真田丸」が高視聴率で日本中の人気を集めました。私も、第1回から最終回まで予約録画でほぼすべてを視ました。

天下の名将といわれた真田幸村(源次郎信繁)は、敵対する徳川勢を相手に豊臣政権を守るために最後まで諦めずに戦い抜きました。

しかし、結果として、大阪夏の陣で、徳川による「和睦」での堀の埋め立て、戦略の牙城となっていた「真田丸」の取り壊しによって、武装解除され、それに対抗すべく第二、第三の「真田丸」を持って対抗しました。

ところが、最後は味方による意見対立や反目からの失策、内部通報者による情報漏えいなど予想外の問題から、善戦して勝利の一歩手前で、ついに追い詰めた徳川軍の反撃に遭い、敢え無い最後となってしまいました。

これは、家康を本陣に迫り、追い詰めた幸村に対して、「もはや武力によってのみ世の中を治める時代ではない。」と糾弾した家康のスタンスが、「戦術」のみに頼った幸村を最終的に凌駕した真意であり、歴史的にみても極めて重要な視点であったと言えます。

「戦略」は「戦術」を凌駕する。

この重大な事実は、時を超え、時代を越えて、人類普遍の定理といえるように思います。

家康と幸村の違いは、「戦略」と「戦術」の違いにあったというのは、立場的な違いからも言えます。

家康は秀吉亡き後の戦国大名の筆頭たる「大輔(だいふ)」となり、大勢を仕切っていたのに対し、関ケ原の敗戦の将、石田三成は、「治部少輔(じぶのしょう)」という官職として大輔より下位の立場であったことは注目に値します。

幸村もまた、牢人としての立場であり、すでに地位が下位であった点で共通しています。(ちなみに、少輔は律令制の次官の役職で長官が大輔です。)

つまりは、組織のトップの立場と秀頼の部下の立場とでは、視野や視点が大きく異なっていた点で、その後の世の中の展開を考えていたか、いなかったか、それに行きつく導線上にあったか否かという点とも大きくかかわっていると言えます。

また、トップであった秀頼自身も、百戦錬磨の家康と比べれば、あまりにも若輩であり、戦場経験もなく、政治的にも母淀に頭が上がらず、十分な判断が出来なかった点で、すでにかなわない戦いであったことは動かしようのない事情であったともいえます。

しかし、最も大きく勝敗を分けたのは、立場の違いからくる「忠義」を重んじる彼らの武士としてのプライドであり、秀吉政権の栄光という「過去へのこだわり」ではなかったでしょうか?

それは、幸村が家康に「もはや、われわれの政権は盤石である。お主のような武力だけに頼る者の居場所はない。」と言われたのに対し、「それは先刻承知だ。しかし、自分たちのために死んでいった者、愛する者を守るためにお前を打倒さねばならぬのだ。」と言った言葉に集約されます。

かつては、ジャパン・アズ・ナンバーワンと称賛され、「貿易技術立国」としての国家戦略の頂点に達した日本経済も、その20年後、少子高齢化の人口構成による矛盾やビュロクラシズムの弊害により、沈没寸前の憂き目に遭っています。

そのことの驕りと先見性の誤りの回復を来年こそは、過去の祖先の判断ミスをよく自覚し、リベンジを図っていくしかありません。




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投稿者 大埜治仁税理士事務所